ほれ。
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海上自衛隊呉基地の隊員が奏でる「信号ラッパ」。明治から伝わる旧海軍のラッパ譜が、日々、停泊する艦船から鳴り響く。しかしそこにも、時代の波は忍び寄っていた。(中川正美)
日清戦争さなかの1895(明治28)年3月、俳人正岡子規は海軍従軍記者として旅立つ友人を呉軍港で見送り、句を残した。
大船や 波あたたかに 鴎(かもめ)浮く
子規来訪の6年前に呉鎮守府が開庁し、旧海軍の造船や兵器製造拠点となった呉市の呉港。戦艦大和の母港にもなり、戦後は海上自衛隊に引き継がれた。
午前8時。活動を始めた街のざわめきをかき消すように、高らかに信号ラッパが響いた。停泊中の自衛隊呉基地の各艦が毎朝行う艦旗掲揚の吹奏だ。旋律は潮風に乗り、輪唱や合奏にも聞こえる。
ラッパには音程を変える装置がない。演奏用ではなく、点呼や行進、礼式を合図する伝達道具だ。奏者は「ドトタテチ」と発声するときの口の形によって、五つの音を巧みに吹き分ける。
艦旗の定時掲揚や日没の降下で流れるのは、1885(明治18)年制定のラッパ譜「君が代」。海上自衛隊東京音楽隊長を務めた谷村政次郎さん(72)の話では、国歌「君が代」と同名だが、ラッパ吹奏用で曲調はまったく異なる。
「信号ラッパの音色は海軍当時のまま。青春の響きじゃね」。港近くの田部(た・なべ)清人さん(87)は戦時中、戦艦伊勢の砲員だった。終戦前に呉沖で米軍機の空襲を受け、約200人が戦死した。
昔と変わらぬ調べが、遠ざかるあの日の記憶を呼び覚ます。
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信号ラッパは、東京都港区の小さな工房で生産されていた。長野管楽器製作所。約30平方メートルの作業場で、長野佐紀さん(85)と後継ぎの2人の息子が「明治の音」を守る。亡き夫が戦後に楽器の修理工房を開き、一時は20人以上を抱えた。約50年前からラッパ製造を手がけ、高齢化した職人の減少に伴い専業になった。
板状の真鍮(しん・ちゅう)を丸めて管に加工し、「朝顔」と呼ばれる漏斗状の音口を溶接。さらに二重、三重に巻いた管をつないで形を整える。仕上げは佐紀さんの仕事だ。ひと息、強く吹き込み、音の漏れを聞き分ける。ラッパを握る手の指に、いかついタコ。「ずっとやってきた仕事の誇りだね」と、いとおしむようにさする。
年間約500本を生産する。安い外国製に押され、一般向けの受注はほとんどない。頼りは自衛隊に納める国産限定の「官品」だ。
国内初の信号ラッパの教習は幕末の1866(慶応2)年とされる。フランス人教官が江戸城を守る歩兵に教えた。1885(明治18)年に日課から礼式、行進まで陸海軍統一のラッパ譜221曲が制定された。
当時、庶民は面白がって曲に歌詞を付けた。起床ラッパは「起きろよ起きろよみな起きろ 起きないと班長さんにしかられる」。消灯ラッパは「新兵さんはつらいんだね また寝て泣くんかね」。胃腸薬「正露丸」を製造し、ラッパのマークが社章の大幸薬品のCMソングは、ラッパ譜「食事」だ。
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今も海自の艦船の隊員は、けたたましい「総員起こし」で跳び起き、哀愁を帯びた「巡検」の調べで一日を終える。吹奏役は若手の航海科員だ。ラッパ教習は、呉港に近い江田島(江田島市)の第1術科学校で。使用するラッパ譜は32曲。必須はその半分に減った。
海士航海課程(定員27人、6カ月)の授業を見学した。全国から選抜された入隊2〜4年の20人が特訓中だった。田中久行・航海科長(48)は「洋上生活が多い船乗りは志望が少なくなった」と定員割れを残念がる。奮闘する女性隊員のひとり、上野梢(こずえ)さん(25)は「高音を出すのが難しいけど、航海科にしかできない誇れる科目」と胸を張る。
海自用ラッパに刻印された旧海軍ゆかりの錨(いかり)マーク。その伝統も今年消え、「防衛省」の文字に替わる。